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読書 あれこれ その237

 投稿者:蘇る青春  投稿日:2017年11月11日(土)16時17分51秒
返信・引用
         「東京難民」 福澤 徹三著
    大学を除籍になったのを皮切りに、次から次へ事態が悪化していく。自分だけが、なぜこんな目に遭わねばな
   らないのか。修は泣きたいような気持で、夜の街を走り続けた。
   そもそも、仕送りもせずに消えた両親が悪い。学費の滞納で、さっさと除籍にした大学が悪い。きちんとバイト代
   をくれなかった連中が悪い。すこし家賃が遅れただけで、家財道具をカタにとって部屋を追いだした東亜パレス
   が悪い。ひとことでいえば運が悪い。

   同じ大学生でも、光本真理はボランティアをしている。金にもならないのに他人の面倒をみるなど、かっての自分
   には想像もつかなかった。どうして真理はホームレスを助けようと思ったのか。テント村のみんなは純粋な好意
   と受けとっているようだが、ほんとうにそうなのか。
   「真理ちゃんは、どうしてボランティアをやってるの」真理は眼をしばたたいたが、まもなく微笑して、「楽しい
   からです」単純すぎる答えにとまどいつつ、でも、と言葉をかえした。
   「大学へいってるのに、たいへんじゃない。お金にならないし、ホームレスもいいひとばかりじゃないだろうし
   ――」「ええ。それでも楽しいです」「どういうところが?」「みなさんとお話しすることとか――」

   思いかえしてみると、大学を除籍になってから、さまざまな仕事をやってきた。ポスティング、テレアポ、ティッ
   シュ配り、治験のバイト、ホスト、日雇いの作業員。途中で逃げだしたがウリセンボーイもやったし、タコ部屋
   まがいの日雇いもした。
   住むところも転々と変わっている。マンションを追いだされて、はじめは雄介(修の同級生)の部屋に居候した。
   そこも居づらくなって、ネットカフェで寝泊まりするようになった。あの頃は新宿のネットカフェだった。
   そのあとは歌舞伎町のはずれにあったトワイライトの寮に、阿佐谷の鳴海建設の寮、蒲田のゲット、池袋の犬丸
   組、つまりタコ部屋だ。それから蒲田にもどって、テント生活になった。かいつまんで喋っているつもりだが、
   途中で熱を帯びてきて、話が長くなった。けれども、真理は熱心に耳を傾けていた。
   「――大変だったんですね。修さんにくらべたら、あたしなんか、なにも経験してません」
   「ほめられるようなことじゃないよ。いきあたりばったりで生きてきただけだから」
   「いきあたりばったりでも、それだけいろんな仕事ができるのはすごいですよ」「――ありがとう」

   「快楽を突きつめていけば、なんでも自分の思いどおりになる世界へたどり着く。その世界では、他人が思うが
   ままにあつかえる道具と化す。したがって軋轢(あつれき)こそないが、人情もなければ心もない。その結果、
   ひとは孤独になる」「そこまで極端に快楽を求めているひとはすくないでしょう」
   「すくなくはない。その証拠に、ひとは幸福を金であがなおうとする。金があれば幸福になれると信じている。
   だが金で買えるのは快楽であって、真の幸福ではない。快楽を幸福だとすれば、それを得られないと不幸になる。
   だから、いまの世の中は不幸な人間だらけだ」
   「じゃあ、真の幸福ってなんですか」「大いなるものを信じることだ」
   「大いなるもの?」「そうだ。神と呼んでもいい」

   「ほとぼりが冷めるまで、しばらく旅してきます」修はテントに入って、手早く荷物をまとめた。ひとりひとりに
   別れのあいさつをしたかったが、いつ警察がくるかわからない。
   「修、元気でやるんやで」
   「もどってきてや。ぜったいやで」
   「おまえなら、きっと難民を抜けだせる。いつか、おれたちに立派になった姿を見せてくれ」
   みんなの言葉に嗚咽がこみあげてきたが、湿っぽい顔は見せたくなかった。修は頭をさげて、「必ずここにもどっ
   てきます。いままで、ありがとうございました」
   真理はこわばった微笑を浮かべて、うなずいた。

http://   「死はこわくない」   立花 隆著

 
 

読書 あれこれ その236

 投稿者:蘇る青春  投稿日:2017年10月27日(金)17時43分18秒
返信・引用
         「砂の城」  遠藤 周作著
    「母さん、なくなる一週間前、お前が十六歳になった誕生日にわたしてくれ、そう言うてな、父さんに託した
   手紙ばい」・・・・・
   この世の中には人が何と言おうと、美しいもの、けだかいものがあって、母さんのような時代に生きた者にはそ
   れが生きる上でどんなに尊いかが、しみじみとわかったのです。あなたはこれから、どのような人生を送るかも
   しれませんが、その美しいものと、けだかいものへの憬れだけは失わないでほしいの。・・・・・
   高校を卒えると、泰子は色々と考えた末長崎の浩水女子短大の英文科に入学した。親友の水谷トシもなんとか父親
   を説得して同じ学校の家政科にもぐりこんだ。
   「そうなの。知らなかった?うちの学校は毎年一回、英語劇をやっているの。はじめはうちの学生だけでやって
   いたのだけれど、一昨年からN大学の男子学生と合同でやるようになったのよ。あなた、それに出る気はないか
   しら」    「あの、頼みがあるとですが、きいてもらえんですかね」「わたしに?」
   「そう。ひとつ、ぼく(西宗弘)に英語の発音、教えてくれんかなあ。脚本の英語の」
   「自信なかあ。とても…教えるなんて」

   この小旅行のあと泰子と西とはいままでよりもずっと仲良くなった。泰子は西の男らしい、飾りっけのない性格
   が好きになったし、西は西で泰子の清潔さや頭のよさに好感をもってくれているようだった。

   「あのね、憶(おぼ)えとるやろ。星野さんという人」星野、星野と口のなかでその名前をつぶやいて、泰子は
   やっとその男が夏休みに島原の西宗弘の家で紹介された青年であることを思いだした。
   「あの人と、わたし、時々、長崎で会うてるとょ」「ほんと。それで」「うち、恋したらしか」
   両手で火照った頬をはさんでトシは大きな溜息をついた。・・・・・
   たった一年たった今日、トシは星野を追って神戸に行き、西宗弘はどこで何をしているのかわからない。あのド
   ライヴの日、このようになろうと泰子は夢にも考えなかった。白い砂浜で三人、ねころびながら、すき通る海を
   眺め、波うちぎわで砂の城を作って遊んだ思い出はまだはっきり憶えている。
        十二月になった。クリスマス近い日に彼女(泰子)は電報をもらった。スチュワーデスに採用されたのである。

   「ぼくはお宅の御主人に少し、お金を御用だててまんのんや」「お金を?」「そうだす。百万円ほどな」
   私はびっくりして星野さんの顔を見た。星野さんは手にもった杯をおいて、黙ったまま、うなずいた。
   星野を棄てて生きることはもう、今のトシにはできなかった。星野と一緒にいることが自分の破滅につながる
   ことは百も承知していながら、彼を見棄てるわけにはいかなかった。自分のほかにあんな男の世話をする女が
   いる筈はなかった。

   「神戸で愛人を使い、信用金庫の金を着服していた男が今日、東京のかくれ先で淀橋署に逮捕されました。こ
   の男は星野恒夫と言い、半年前から神戸の六甲信用金庫に勤める愛人の水谷トシと共謀し、預金者の金を引き出
   し・・・・・」抑揚のない声でアナウンサーは今夜、最後のニュースを読んでいた。

   「みなさま。大変、申しわけございませんが、この機は香港に着陸せず、直接、ニュー・デリーに向かいます。
   当機はただ今、ハイジャックされましたので、みなさまと機の安全のために、要求通りに従うことになりまし
   た・・・・・」機長の声はふしぎなほど落ちついていた。泰子はまるで夢でも見ているような気持だった。・・・
   「こんにちわ」と突然、彼女に挨拶をした。びっくりして顔をあげると、「わかりませんか」ゆっくりと彼は
   サングラスをはずした。
   思わず大声をあげたくなるようなショックをうけた。忘れもしない、西宗弘の顔がそこにあらわれたからである。
   「ぼくらは今、戦いよっと、戦いよっことば知ってほしかね。ぼくらのやっとることが暴力なら、もっと大きな
   暴力がベトナムなどで行われたこと、泰子さん、考えたことなかろうが」彼はそれだけ言うと黙って食事を続け
   た。・・・・・
   迷彩服を着た兵士たちがハイジャッカーをかこみ、タラップに転がった西宗弘と地面に倒れている別の男の死体
   を担架に乗せた。
   「さようなら。西さん」  今は彼を憎んだり、恨んだりする気持ちは消えていた。西には西なりの懸命な生き方
   があったのである。水谷トシにも水谷トシの必死な生き方があったように。青春という浜辺で一人、一人が砂の城
   を築こうとする。押しよせる波がその城を砕き、流していく。西には西のつくろうとした城があり、トシにはトシ
   のつくろうとした城があった。

http://   「死はこわくない」   立花 隆著

 

読書 あれこれ その235

 投稿者:蘇る青春  投稿日:2017年10月19日(木)20時41分41秒
返信・引用
       「サバイバルファミリー」  矢口 史靖著
    夫の義之はもともと群馬から東京に通って働く通勤族だった。光恵は鹿児島から就職とともに上京。縁あって
   恋愛結婚してから二十一年だ。一男一女(長男:賢司、長女:結衣)の子宝にも恵まれ、十数年ほど前に義之の
   職場に近いこの練馬区に引っ越してきた。

   「停電!?なんで・・・?」「だからわからないの。も――、明かりはつかないし、テレビも見られないし、冷
   蔵庫も・・・やんなっちゃう」と、妻は冷蔵庫から取り出した溶けたアイスをひとなめした。・・・・・
   遠くにいつも響く電車の音が・・・ない。音楽もアナウンスも、工事現場の道路を砕く音もしない。
   あたりを見回すと・・・車やバイクは・・・?一台も走っていない。

   「電気が復旧するまで、全員、自宅待機と決定しました。みなさん、注意して帰ってください」寝耳に水だ。
   義之はカッとして立ち上がった。

   「・・・もうちょっと待ってれば電気、もどんじゃね?」賢司がめんどくさそうにつぶやいた。すると義之が
   癇癪玉(かんしゃくだま)を破裂させる。「だからおまえはダメなんだよ!こんなになってからもう一週間だぞ。
   もしこのまま復旧しなかったら、もうあと何日も暮らせないって、それくらいわかんないのか?」・・・・・
   義之のほうから「鹿児島に行こう」と言ってもらえて、光恵は心底ホッとしていた。光恵は優しい声で夫の援護
   射撃をした。
   「鹿児島に行けばこっちよりだいぶ温かいし、水だって食べ物だってなんとかなるでしょ?」
   結衣は不満たらたらな様子で、行きたくない理由をなおも並びたてた。

   「よ――し、へばるなよ!」夫の声を合図に、鈴木一家は意気揚々と出発した。義之の運転する三輪自転車は
   光恵を乗せて先頭を走り、そのうしろに賢司のクロスバイク、最後尾が結衣のママチャリ。
   光恵も義之も、背後に遠ざかっていくマンションをつい、ふりかえってしまった。
   東名高速も浜松をすぎたころ。その日は風もなく、陽の光が降り注ぐ絶好のサイクリング日和だった。しかし
   ながら、鈴木一家にとってその日差しはいやがらせ以外のなにものでもなかった。・・・・・
   東京のマンションを出発してから、何日たったのか。今日は何月何日で何曜日なのか。賢司にはもう見当もつか
   なかった。
   家族は田園地帯を歩いていた。自転車は再び全部パンクしてしまった。空腹と脱水症状で意識が朦朧とする。飢え
   と渇きと疲れ。頭を占めるのはそのことだけで、他はもう何も考えられない。

   川幅は40から50メートルくらいあったが、意外と流れはゆるやかなのか、中ほどに渦ができて木葉が踊って
   いる。しばらく川を眺めていた義之が、何かを決意したようにつかつかと川に向かい、ふりかえって言った。
        「わたろう」

   義之のカツラ。義之の残骸といってもいい。辛い旅のあいだでも決して脱ごうとしなかったカツラが主(あるじ)
   のもとを離れているという事実が、父親の死を意味していた。
   賢司だって泣きたかった。何もかもほうりだして楽になりたかった。でもそれはできない。お父さんが命をかけて
   守ろうとした二人をつれて、なんとしても鹿児島にたどり着かなくちゃ。こんなところで野垂れ死にするわけには
   いかない。賢司は光恵の手をひっぱって歩きだした。結衣の手も引いた。死んでたまるか。賢司は自分にそう言い
   聞かせた。

   機関車が動きだすときの揺れで義之は目覚めた。SLやまぐち号は、下関発電所で石炭の補給を終えたらしい。
   道端で倒れていた義之が助けられてから、まる一日がたっていた。脱水と衰弱のためにほとんど座席で寝たきり
   だったが、今朝は乗客にもらった梨をなんとか食べた。・・・・・
   「機関車、鹿児島まで行くって!鳩の手紙に書いてあったよ」「本当!?」
   光恵がホッとした顔になる。鳩が空に放たれ、南に向かって飛んでいった。鈴木一家にとってそれはまさしく朗報
   だった。九州に入ったとはいえ、福岡から鹿児島までそうとうな距離だ。どうやったらいいのか、それだけが心配
   の種だったのだ。
   この数ケ月サバイバル生活を思い出すうちに、義之は涙が止まらなくなった。見ると光恵も子どもたちも泣いている。
   生きて鹿児島の目的地にたどり着いた。自分たちはあの困難な旅をやりとげた。義之は泣きながら家族を抱き寄せた。
   あんなにバラバラだった家族が、いつの間にか一体になっていた。

   情報網が復活すると、この大規模停電は世界で同時に起きたことがわかった。この期間を生き延びることができた
   者はいたが、病気やけがで死んだ者、略奪などの争いに巻きこまれて命を、落した者なども多数にのぼった。
   

http://   「死はこわくない」   立花 隆著

 

読書 あれこれ その234

 投稿者:蘇る青春  投稿日:2017年10月12日(木)18時02分38秒
返信・引用
                        「ホンのひととき」 終わらない読書  中江 有里著
   終わらない読書――まえがきにかえて
    これまでわたしは、さまざまな「本」と出合ってきました。「本は心の友達」と書きましたが、これほど気が
    置けない友達はいないでしょう。その証拠に、この文章に登場する「本」という単語を「友達」と入れ替えて
    みてください。ほぼ通じると思いませんか?
   Ⅰホンのひととき
    ○診療所の待合室で
     子どもが読書をする理由はただひとつ。読書が楽しいからでしょう。子どもは楽しむことの天才です。歩く
     こと、食べること、こうした日常の営みの中にも楽しみを見つけ出します。読書も生活の一環。本を選ぶこ
     とも読むことも楽しい。診療所の待合室にいた子どもたちは、まさにそんな様子でした。
    ○効き目
     人間は大人になると、体の成長が止まり、老化が始まります。しかし精神の成長はその命が尽きるまで続き
     ます。読書習慣は、わたしたちの心の体質改善になります。心も体も、日々の積み重ねで作られるのですから。
    ○随所読
     全く他人の読書に刺激を受けるのも、外での読書ならではのもの。多くの方に実践してもらうことで、他人
     に読む気を起こさせる。読書の楽しみが広がるわけです。
     中国の昔の言葉に「随所楽(ずいしょにたのしむ)」というものがあります。意味は「至る所で楽しむ」。
     どんな場所でも楽しみを見つけられるのは、結局、自分の心のあり方です。わたしの場合は「随所読」。
     どこでも読むことができる、それこそがわたしの「楽」。「随所読」、ぜひお試しくださいね。
   Ⅱ「読書日記」
     読書日記では○月△日に読まれたいろんなジャンルの本が網羅され作者の読後感想とお薦めの言葉が並んで
     いる。小生が読んでみたい本を選んでみると次の通り。
      「砂の城」 遠藤周作、 「コンニャク屋漂流記」 星野博美、 「東京難民」 福澤徹三
      「ジェントルマン」 山田詠美、「遅い男」J・M・クッシィー、「64(ロクヨン)」 横山秀夫
      「ふぞろいの林檎たち」 山田太一、 「沈黙の町で」 奥田英朗、「建築家、走る」 隈研吾
      「信長の二十四時間」 富樫倫太郎、 「月下上海」 山口恵以子
      「見送ルある臨床医の告白」 里見清一
   Ⅲ「書評の本棚」
     書評の本棚では、作者がそれぞれの本にふさわしい独自のタイトルをつけ本の紹介をしている。
     ここでは小生、次の二冊を選んでみたい。
      「プリズム」 百田燈尚樹、 「おれのおばさん」 佐川光晴
   『本のひととき』 あとがきにかえて
    昔から文字が好きで、それが高じて本が好きになりました。本書はわたしにとって初めての本をめぐるエッセイ
    集であり、好きな本について新聞や雑誌などで書き続けてきた記録であります。
    読みたい気持ちはあるけれど、読む時間がない方。一日のうち五分間、お茶を飲みながら「本のひととき」を
    過ごしてみませんか。読書は積み重ねです。一歩ずつでも前に進めば、後ろには戻らない。たとえ足踏みした
    としても、基本は前進あるのみ。

http://   「死はこわくない」   立花 隆著

 

読書 あれこれ その233

 投稿者:蘇る青春  投稿日:2017年10月 4日(水)16時38分35秒
返信・引用
                たのしい読書術
       「生きかた名人」  池内 紀著
   はじめに
    ここに生きかた名人二十人が紹介されている。小生ここに四名をピックアップしてみる

   ○飲み助   吉田健一
    吉田健一が酒を飲むときの心得を説いている。犬が寒風をさけて日なたぼっこをしているようなものだという
    のだ。そんなふうにぼんやりした気持ちで飲むのがいいのであって、ヤケ酒などは下の下に属する。あれこれ
    思惑ずくの飲み方は悪酔いのもと。酒はそういった「他力本願の飲み方」をよろこばない。要するに犬が日な
    たぼっこをしているようすを忘れないこと。
    ためしに犬を抱き上げてみるとわかる。日光が毛を通して皮膚まで差し、肉まであたたまってやわらかくなっ
    ている。
   ○雑学   植草甚一
    品のいい白いヒゲ。色シャツにベストとジーンズ。終生、気ままな借家住まいで、私鉄やバスで新宿、六本木
    にやってくる。
    「なんでもないことだが、どこかでコーヒーを飲んだあとでブラブラしていると、おや、いつこんな喫茶店が
    できたんだろうと思うことが最近とくに多い」  (「散歩とコーヒー」)
    タイトルにある散歩とコーヒーは、植草甚一にとって、特別の意味があった。ブラブラ散歩して、そのうち
    喫茶店に入る。同じエッセイに「いつも一人ぼっちで古本屋に入ったりしながらブラつくのがすきなのだが」
    ともあるように、まずは手に入れたばかりの本をひらく。つぎに店のつくりや客たちをながめる。ガラスの
    仕切りが奥にあって、その向こうで白い仕事着に白い帽子をかぶった人がケーキをつくっていたりする。
    全体がシャレた感じで、だからこそ入ってみる気になった。
    「きょうはここらで散歩をきりあげようかと考えるのだが、注文したコーヒーを飲み終わったころには、もう
    ひと歩きしようという気持ちにかわっている。どうしてそうなるかというと、喫茶店の居心地がいいせいなのだ」

         「トシをとったら植草甚一になろう!」

   ○子沢山   与謝野晶子
    子供が十二人でとまったあとも歌は生まれた。『太陽と薔薇』は与謝野晶子第十七番目の歌集にあたる。そこに
    晶子は自作の絵をそえ、また歌集としては異例の長さの自序をつけた。その中で自分の絵を「自由画」と言い、
    さらにこうつづけた。
    「一体に、私の生活の全部が自由画の積りです」さりげなく話を転じて強い主張を述べている。自分の個性を
    自由に表現したいからこそ詩や歌をつくっているというのだ。人の感情には、それぞれ「特殊の表現」があって
    、それを忠実に表現しようとすれば自由画になるしかない。
    さらに歌に託して、こうも述べている。たしかに自分は三十一文字の歌をつくるが、「似て居るのは唯それだ
    け」、読者はまず、これらの歌の作者が、どんな特異な感動をもって生きているか読みとってほしい。
    いつまでも万葉集や古今集の「標準」でもって、とりあげたり捨てたりされるのは、はなはだ迷惑だ。それに

    自分は短歌も、詩も同じ態度でつくっており、詩だから歌だからといった区別を立てていない。だからお定まり
    の見方でなく、「世界の詩の標準」でもって読んでほしい―――。
   ○ホラ   寺山修司
    ごぞんじのとおり、ホラを吹くのがとびきり上手な人間がいる。子供である。とりわけ少年だ。誰もが幼いこ
    ろ、壮大なホラを吹いた。ショートケーキ十三個をいちどに呑みこんだし、森で電信柱より太い蛇と出くわし
    た。蹴とばしたサッカーボールは空高く舞い上がり、三年たっても落ちてこない―――。
    寺山修司はいつも、そんな少年のように初々しかった。少年のホラを忘れず、したり顔した大人の論理や正義
    とやらを拒否しつづけた。それというのも、ホラが哲学であることを知っていたからだ。それは笑いの効用を
    おびており、人間の愚かさを滑稽化して、まざまざと見せつける。人間的愚かさに対する、はてしのない戦い
    の強力な武器なのだ。

http://   「死はこわくない」   立花 隆著

 

読書 あれこれ その232

 投稿者:蘇る青春  投稿日:2017年 9月28日(木)15時50分54秒
返信・引用
             パンとスープとネコ日和
     「優しい言葉」  群 ようこ著
   ともかく縁があってアキコのところに来てくれたので、みんなで楽しくやっていければいい。しかし元気盛り
  のどすこい兄弟(兄:たい・弟:ろん)の兄弟の迫力には、圧倒されっぱなしだった。
  ご飯を食べると次は睡眠である。一度寝ると起きないので、この点はとても楽だった。「こら、ろんちゃん、お
  兄ちゃんのを取ったらだめよ。自分の分は食べたでしょ」そういっても目の前のご飯を前にして、ろんがいうこ
  とを聞くわけもなくぐいぐいと頭を突っ込んで、たいを押しのけようとする。
  「ほら、たいちゃんもしっかりしないと」いちおう足を踏ん張って抵抗しているのだが、そのうちたいは横に
  押しやられ、ろんはお皿を奪取して、かりかりといい音をたてて、たいの分を食べきる。
  とにかく家族が増えたことだし、お互いにがんばりましょう」アキコはそういって、日々サンドイッチとスープ
  を作り続けていた。
  客数は特に変化もなく、夕方になるとスープがなくなって店じまいである。これから賑わう商店街なのに、相変
  わらずアキコの店だけ逆行している。向かいの喫茶店のママは、いつものようにやってきて、「今日も終わりね、
  ご苦労さん」といってくれる。・・・・・
  「体にネコの毛がつくのは飼い主の宿命だけど、口に入れる物を作っている立場としては、それが器の中に入っ
  ているなんて、絶対にあってはならないことだから。とにかく店では、神経質になりすぎるくらいになりましょう
  ね」  「そうですね。わかりました」  そういったしまちゃん(社員)のエプロンの左肩に、毛がついていた。

  アキコは兄弟の姿を眺めながら、お茶を飲んだ。母が急死して一人になり、そこにたろが来てくれて二人になり、
  そしてまたたろがいなくなって一人になり、今度はたろが二倍になって、たいとろんとで三人になった。
  アキコはしまちゃんから、どうやら競合店ができるようだと話を聞いたときも、それは仕方がないことだと考え
  た。アキコの店のお客様が激減して、経営が立ちゆかなくなったとしても、それはその店の運命である。社員の
  しまちゃんにはそれなりのお詫びと退職金と、できれば次の就職先をお世話して、アキコは静かに身を引くつも
  りだ。そしてどすこい兄弟と一緒に隠居生活に入りたい。

  競合店の影響もなく、以前と変わらず客数は安定し、ほどほどの忙しさで一日が終わった。
  「本当にそうですね。これからもしまちゃんやママに助けてもらって、店をがんばっていきたいです」アキコはそう
  いうと、ママは感慨深げに、「やっとそこまできた。長い道のりだったねえ。欲のないお嬢さんもやっと店のオー
  ナーの自覚がでてきたか」とつぶやいた。
  「よろしくお願いします」アキコは頭を下げた。「はい、こちらこそよろしくね。あ、お客さんだ、じゃあね」
  ママはあわてて店に駆け込んでいった。アキコもシャッターを閉めて自室に戻ると、いつものように、どすこい
  兄弟の突進を受けた。

http://   「死はこわくない」   立花 隆著

 

読書 あれこれ その231

 投稿者:蘇る青春  投稿日:2017年 9月20日(水)15時06分11秒
返信・引用
       「情人」   花房 観音著
    笑子は特に成績が優秀でもなく、かといって落ちこぼれでもない、成績は常に中の上と中の間をふらふらし
   ている、地味で無気力な高校三年生だった。・・・・・
   今思うと、兵吾は自分が親戚の集まる場が苦手だから、私を利用して外に出ていたのだろう。十三の空気は
   兵吾の纏(まと)う空気と似ていた。あとになって思うと、あれは男の匂い、性を纏わりつかせる大人の空気
   だというのはこじつけだろうか。
   そんな中で、一番曖昧で他人から見ておかしなことは、自分が母の男である兵吾に会い続けていることかもし
   れない。兵吾が働いているとき、何度か足を運んでいた。寺をやめて事務所を借りたと聞いて、さすがにひと
   りでいきなり行くのには躊躇いがあって疎遠になった時期もあったが、就職してからは、「仕事」という名目
   で、ときおりそこを訪ねるようになった。・・・・・
   私はそこから逃げてしまった。母が去った父親と、引きこもりのどうしようもない兄のいる家から――――。
   そんなうしろめたさを感じているくせに、笑子はあの男のもとに向かっている。母の男のもとに。

   片岡樹(いつき)は一か月後に、笑子は会社を二か月後に辞めて東京へ行くつもりだった。婚姻届は片岡が
   東京に行く直前に出して、「片岡笑子」となった。
   姫野という家の人間ではなくなったのだと思うと、ホッとした。もうあの兄とは名字が違うのだ。私は姫野
   笑子ではなく、片岡笑子だ。東京で、片岡笑子として新しい人生を送れる――――。

   セックスに逃げ込みたいときがある、人と肌を合わせることでしか救われないときがある、セックスでしか
   自分で自分を救えないときが―――兵吾の言葉が、私を壊す。私の鎧を脱がす。
   私が兵吾を求める気持ちは、私の知っている恋でもないし、愛でもない。恋人ではないし、愛人も違うよう
   ような気がする。友人などでは絶対にない。いうなれば、情人という言葉が相応しい気がする。
         じょうじん、じょうにん、いろ―――おとこ。
       情欲でつながっているのだから、この男は私の情人だ。

   けれど樹は、明らかに以前よりも生命力に満ち溢れていた。私との生活では得られないものが、いや、遥かに
   樹の人生にとって重要で大切なものが、彼の仕事にはあったのだから。

   「俺たちが何も知らないと思っているのか。お前が、あのとき、誰と一緒にいたのかも――樹君は、全て知って
   る。震災の前から、気づいていた。あの日、笑子が心配で、マンションに電話をかけたら、樹君しかいなかった。
   笑子はどこにと聞くと、彼が、笑いながら『お義母さんたちがよく御存じの男のところですよ』と答えて、呆然
   となったんや」
     私は唇を噛み、父から目をそらす。   知られていたのか、なにもかも―――。
   「―――あの男だけは、あかん。あの男とのことは、私の人生最大の過ちや。後悔してるんや」母はバッグからハン
   カチを取り出し、口を押え、くぐもった声で言葉を続ける。

   「いい話だよ。自分の兄貴が、やっとひとりで、自分の足で歩み出そうとしてるんだから。結婚して、新しい土地
   で子どもを作って生きていこうとしてるんだ。笑子が落ち込むことはないよ。親だって、安心してるはずだし」
   確かに樹の言うとおりだ。落ち込む話では、ないはずだ。
   「そうだね」私は無理やり、自分を納得させようと、そう言った。
   樹の表情は変わらない。優しげな顔だ。  「連絡しない。一生会わない。二度と顔も見たくないから」樹は
   私にそう告げると、容赦なく背を向けて、歩き出した。私はただ立ちすくんで、その後ろ姿を目で追うことしか
   できずにいた。

   「兵吾―――」  世界が終わる――そう思ったあの日に、抱き合っていた男――離れたくないとすがりついた
   男――。  情人――私が、誰よりも激しく求めた男。何度も肌を重ねてつながった男。
   私を救う男が去った部屋で、私は男の名を呼び続ける。ひとりになったと、失ってしまったのだと、確かめるた
   めに。
   そして、それでも生きていかねばならないと、思い知るために。

http://   「死はこわくない」   立花 隆著

 

読書 あれこれ その230

 投稿者:蘇る青春  投稿日:2017年 9月 2日(土)21時13分26秒
返信・引用
         「キャプテン」   ちば あきお原作  山田 明小説
    丸井(キャプテン)さんがボールを打った。かなり強い打球だ。俺(イガラシ)はグローブを差し出し、それを
   さばく。いい感じだ。気持ちよく捕ったボールをキャッチャーに返した。日本一を目指すか。
   俺はノックを受けながら、丸井さんの言葉を振り返る。
   日本一―――いい響きだ。必ず日本一になろう。そんなことを考えながら、俺は飛んできたボールに飛びついて
   いった。

  「あぁいい。聞こえてたから。俺に、キャプテンを降りてもらいたいんだろう?たしかに、感情的すぎて、俺、キャ
  プテンに向いてないもんな。俺、降りるわ。そのほうが野球部のためにいいと思うし」

  「じゃあ、『丸井さんのキャプテン続行』でいいんですか?俺(イガラシ)、すぐにでも丸井さんを追いかけて、
  話してきますけど」そう言って、俺は立ちあがった。

  「・・・丸井、俺は野球部をやめるから」そう言って俺の腕を振りほどくと、河野は自分の教室へと戻っていった。

  「さっきも言ったけど、俺、河野の気持ちがわかるんだよ」俺の答えを待たずに、加藤が言葉をつないだ。「こいつ
  には、どうやったってかなわない。あきらめた、俺の負けだ、みたいに感じる奴が身近にいる人の気持ちがさ。丸井、
  俺にとっては、お前がそういう存在なんだよ。お前は、イガラシみたいな才能があるわけじゃないけれど、野球や
  チームメイトに対して、ホント熱いよな。その熱さも才能だ。俺には絶対、そんなことはできないから」・・・・
  「俺、もう一回だけ、河野を説得してみる!やっぱり、河野がやめるなんて絶対にイヤだ!俺は、そんなに、ものわ
  かりよくなんてなれない!」・・・・
  「河野!俺、やっぱり、お前にいなくなってほしくない。野球部をやめないでくれ!」丸井は泣いていた。泣きなが
  ら、ずっと走ってきたのだろうか?
  「丸井!だったらお前も石を投げろ!向こう岸に届いたら、河野は野球部に残ってくれるから!!」島田の大声が
  響いた。島田はまた石を拾い、全力で投げた。

  「見たか、河野!?俺たちの勝ちだ!約束だ!!野球部をやめるなよ!」泣きながら笑い、そして子どものようには
  しゃぎながら島田が叫んだ。
  ―――負けたよ、島田。ありがとう。丸井も加藤もありがとう。「わかった!野球部はやめない。だから、もう戻っ
  てこいよ」そう俺は答えた。もう、野球部に残るしかない。いや、野球部に残れるんだ。

  よし、やるか!あの青葉中を倒して全国を目指す以上、普通のやり方じゃダメに決まっているんだから。
  全国大会出場、そして日本一。ばくぜんとした夢でしかなかったものが、今はっきりと俺には見えている。あとは全
  力で駆け抜けるだけ。絶対に日本一になれるはずだ。夏合宿に練習試合、そして夏の大会。自分たちを信じて、全力
  でぶつかっていこう。

  1回の攻防を終えて4対2。青葉を相手に、最高の出だしだといっていいだろう。・・・・8回の表。5対5の同点。
  ふりだしに戻ったようだが、現実は、チームの状態には格段の差があった。試合は12回の攻防に入った。
  丸井さんから事情は聞いた。次の回で試合を放棄する可能性が高いということを。はっきり言って悔しい。試合を
  放棄するなんて、絶対にしたくない。気力はまだある。それなのに、もう体がほとんど動かなくなってきている。
  体力が尽きかけている。・・・・・

  カキ――ン!  気持ちのいい金属バットの音が響いた。それに続いて、ものすごい歓声が聞こえてきた。小さな
  球場が揺れているようだ。    ボールの行方を見る。
  高々と上がった打球は、そのままレフトスタンドへと飛び込んでいった。よかったホームランだ。
  OBの先輩たちが大きな拍手を送ってくれていた。優勝することができたのは、間違いなく、みんなのおかげだ。
  俺、谷口(前キャプテン)さんみたいなキャプテンにはなれなかったけど、谷口さんみたいにチームを引っ張れなか
  ったけど、部員たちが俺を支えてくれて、俺はみんなと一緒に進むことができたんだ。

http://   「死はこわくない」   立花 隆著

 

読書 あれこれ その229

 投稿者:蘇る青春  投稿日:2017年 8月19日(土)17時48分1秒
返信・引用
        「きよしこ」  重松 清著
   少年(きよし)はひとりぼっちだった。思ったことをなんでも話せる友だちが欲しかった。そんな友だちは夢の
  中の世界にしかいないことを知っていたから、きよしこに会いたかった。・・・・・
  この町に引っ越してきたのは十月だった。父親の転勤で、二学期の途中にやってきた。
  それにしても「きよしこ」ってなんだろう。勘違いはそこから始まって、ひらがなだけで書かれた歌詞を読むにつ
  れて、どんどん歌の内容の意味がずれていった。でも、「きよしこ」の正体は、最後までわからなかった。

  先生はそのときはなにも言わなかったが、ずっとあとになって、少年は知る。先生は母親を診察室に呼んで、精神
  的なことが原因かもしれない、と言ったらしい。たとえば言葉を覚える時期になにか大きなショックを受けたとか、
  そういうことはありませんか―――。
  母親は膝の上でハンカチをぎゅっと握りしめて、泣きだしそうになるのをこらえていた、らしい。

  きよしこに会いたい。自分とよく似た名前の、夢の中の世界に住んでいる友だちに会いたい。

  ゆうべの両親の話は、父親がため息交じりに言ったこんな言葉で終わった。「まあ、どっちにしても、ちゃんとしゃ
  べれんようじゃと、一生だめになってしまうけん・・・・・」  母親は声を押し殺して泣いていた。

  助けて、きよしこ―――。でも、きよしこは姿を現さない。きよしこは、どこにもいない。

  「きよしっていうんだ、ぼく」きよしこは、「知ってるよ」と笑いながら言った。おとなとも子どもとも、男とも
  女ともつかない、でも優しい声だった。どこから聞こえるのだろう。目には見えない。でも、きよしこはいる。
  気配が確かにある。あそこに、ここに、あっちにも、そっちにも・・・・この部屋のどこにでも。
  「君は、だめになんかなってないよ」きよしこは言った。「君は、ちゃんとしゃべってる。ただ、それがあまり
  じょうずじゃないだけなんだ」とつづけて、「だめになんか、なってない」と念を押した。
       どこにいるの―――?
  きよしこの居場所を知りたかったが、まあいいや、と思った。きよしこはいる。それだけでいい。・・・・・
  言葉は、目に見えない糸に導かれているみたいに、なめらかに、よどみなく流れ出た。歌うようにしゃべった。
  はずんだメロディーとリズムの歌になった。
  きよしこは、ずっと聞き役をつとめてくれた。「うん、うん」とテンポよく相槌を打ち、「それで?どうなったの?」
  とブランコを後押しするように先をうながした。思っていたとおりだ。きよしこが相手なら、心の中に浮かんだ
  言葉をそのまま話せる。

  「君はだめになんかなっていない、ひとりぼっちじゃない。ひとりぼっちのひとなんて、世の中には誰もいない。
  抱きつきたい相手や手をつなぎたい相手はどこかに必ずいるし、抱きしめてくれるひとや手をつなぎ返してくれ
  るひとも、この世界のどこかに、絶対にいるんだ」きよしこは最後に「それを忘れないで」と言った。
  少年はもう一度、今度はもっと大きくうなずいた。
  「おかあさん・・・」きよしこの言うとおり、母親の体のやわらかさと温もりに触れていると、気持ちが安らいで、
  体と心の奥深くにあるなにかが溶けていくみたいだった。
  「ゆうべ・・・・ごめんなさい」言葉は喉にも顎にもひっかからずに出た。


  そして、きよしこ―――ひさしぶり、だった。ほんとうに、ずっと、ずうっと、会いたかったのに。なんだ、ここ
  にいたんだな、君は。
  「どちらまで?」と駅員が不機嫌そうにうながした。少年はもう一度深呼吸をした。ずっと入りそこねていた縄跳
  びの輪に跳び込むように、息と声を吐き出した。

http://   「死はこわくない」   立花 隆著

 

読書 あれこれ その228

 投稿者:蘇る青春  投稿日:2017年 8月10日(木)17時20分0秒
返信・引用
      「赦(ゆる)す人」 大崎 善生著
   本業は断筆、雑誌は大赤字、刀は二束三文、商品相場は壊滅状態、御殿は競売、たったの五年間あまりで鬼六は
  おそらく評価額を含めて数億円にも上る損をし、現代の落ち武者のように杉並区浜田山の借家に逃げ込むことにな
  ったのだ。

  題材を提供したのは父だったかもしれないが、作家として骨となる文体や文章といった基礎は、母・幸江から受け
  継いだものだという気がする。だからSMを書いているときでも鬼六の文章はどこか気高く背筋をピンと張ったよ
  うな美しさがある。もちろん鬼六の文体は最終的に自身の感性や経験、教養などによって培われたものに違いない
  だろうが、しかしその芯の中の芯ともいえるものはそこにあるように思えてならない。

  「もう無茶苦茶な親父ですわ」と神崎川駅へ向かうワゴンタクシーの中で鬼六は呟いた。
  「相場、借金、夜逃げ、女遊び。この果てることのない繰り返し。高校のときに父親に英語塾に行かされるんです
  が、その理由が英語を覚えてそれで宝塚の女優を引っ掛けろっちゅうんです。あとは一生遊んで暮らせる。そんな
  ことを本気で言うんやから。もっとも僕は英語塾には行かずに金だけちょろまかしてそれで友達と将棋道場へ通っ
  ていました」

  鬼六は自分は小説家になる気なんかこれっぽちもないし、才能もないと自説を繰り返し、相場をやったり酒場を
  経営したりして遊んで暮らしたいんだと主張した。そんな鬼六の言葉にとうとう香西は堪忍袋の緒が切れた。その
  場で絶交を申し渡されたのである。幸江から紹介されて鬼六の処女出版の手はずを整え、出版パーティーまで開い
  てくれた文藝春秋の恩人編集者を、鬼六はこういう形で裏切ることとなる。それがおそらく純文学から四十年近く
  鬼六を遠ざけ、エロ小説に邁進させたひとつの大きな要因になったのかもしれない。・・・・・
  知人から次々に三行半(みくだりはん)を突きつきられ、近寄ってくるのは借金取りばかりという状況。しかしど
  ういうわけか、そんな鬼六に救いの手を差し伸べた女性がたった一人だけいた。それが板倉三枝子である。
  当時三枝子は二十六歳。日大芸術学部を卒業して地元の三浦市三崎の中学校で英語教師の職に就いていた。

  「あんたは小説家くずれとして、SM小説に転向しなさい。とにかく、結婚(三枝子と)したんやから今までみた
  いに夢ばかり追いかけてたらあかん。銭になることを考えるべきや」必ず最後には銭の話になるのは関西人美濃村
  のリアリズムであるが、そのためにもあんたはSMを書けと断定されてしまった。

   (体があって仲間がいる限り金を浪費し続け、それでも飽き足らず相場に不動産に刀に雑誌発行にと湯水のよう
    に使い続け、最後にはすべてを失ってしまう。見事という他はない。何という欲のない鮮やかな人生。)

  ピンク映画界の衰退と期を同じくして空前のSM雑誌隆盛時代が訪れた。「SMセレクト」は発行部数十万部という
  数字を達成し、それに追随するように続々と新雑誌の創刊ラッシュがはじまる。

  「あんなに儲かっていて会社を潰したのは僕くらいのもんでしょう」と鬼六は苦笑いした。高らかに解散宣言をして、
  鬼プロは晴れて倒産。・・・・・

  こうして二十年間に及ぶ二人の結婚生活に終止符が打たれたのである。鬼六と三枝子の離婚は安紀子にとっても絶対
  にあり得ないと思っていたほどの衝撃事だった。
  そんな安紀子の元を鬼六の母・幸江が訪れた。幸江は安紀子と鬼六と一緒になることを頼み込んできたという。そし
  て「黒岩家を救えるのはあなたしかいない」とまで言ったのだった。それでも安紀子はレコードの売れ行きや今後の
  ことが気になり一年くらいはぐずぐずしていたそうだが、たびたび幸江に「何とかお願いできないか」と口説かれて、
  ついに「そういうことならば」と立ち上がったのである。

  SMという引き出しの中に厳重に閉じ込められていた作家団鬼六。それが一般文芸誌という新しい舞台に引きずりだ
  された。杉並区浜田山というまだ住み慣れない土地で、文芸誌という新しい畑に立って小説に向かう鬼六の胸は新鮮
  な高揚感とともに高鳴っていた。・・・・・
  文句のつけようのない上々の再スタートを切った鬼六であったが、好事魔多しの言葉通り、思いもよらぬ障害が待ち
  受けていた。講演の最中に脳梗塞の発作に見舞われるのである。そのまま入院となった。

  この頃から鬼六は確信的に快楽主義者という言葉を使いはじめる。
  自分はとにかく快楽だけを追い求めて生きてきたし、これからもそうするつもりだ。そう宣言し、七十八歳を過ぎて
  なお人生の歓びを追及しようとする姿はシンプルで魅力的だった。透析による体力の回復が、再び鬼六の目を快楽へ
  と向かわせたのである。おそらくその思いはかってないほどに強いものだったろう。
  快楽なくして何が人生か。それが晩年の鬼六の旗印となった。

  アホもいる。詐欺師もいる。変態も山ほどいた。ヤクザもいれば刑事もいた。小池(アマ将棋の強豪)のような食い
  詰めた真剣師もいれば、将棋指しに相撲取り、役者に噺家に編集者。鬼六の手形を盗み出して挙句の果て自殺したヤ
  クザまでいた。しかしそれらのすべてを鬼六は受け入れ、赦し、そして時には人に自慢さえした。
  僕のところにはこんなしょうもないヤクザがいるんですわ。買った刀はみんな偽物でしたわ。
  五億円、飛びましたわ。女には必ず浮気されました。

  *団鬼六のペンネームの由来
   これからは誰にも遠慮せずに鬼のようにエロ小説を書く。その鬼に昭和六年生まれで、鬼六。そして団令子(東宝
   の大スター女優)が凄く好きだったもので団とつける。

http://   「死はこわくない」   立花 隆著

 

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